立派なという病
経緯や原因はさておいて。
私はひどく過激な目標を立てる癖がある。
それは割りと病的なようで、何かやる時は「立派にやらなければ」「最高を目指さなければ」と思い込んでいる節が有る。
ただまあ、そういう思考は多くの場合に有害だ。「最高」と考える時、大きく以下の問題が生じている。
・現実性や妥当性を除外しまともに考えていない
・最高以外の結果を失敗と考えている
最高をというのは一見向上心があるように感じるが、実のところ考えるのが面倒だから使っている方便であることが多い。どうやら私の精神構造は細かいことを考えるのが嫌いらしい。結果として「よくわからないけど最高を目指す」という形となり、そもそもできるのか? それだけのことを目指す必要があるのか? そこまで時間を掛けられるのか? といった視点が抜けてしまう。
実はこれは怠惰であると私は思う。怠惰は作業をやらないことだけでなく、考えないことも含まれると私は思う。私が考えないという怠惰をどこで学んだとか、誰の影響なのか、といったことはこの記事とは深く関係ないので書かない。
また最高以外の結果を失敗と考えるというのも一種の怠惰だ。当然ながら常にベストの結果が出せるわけではない。外的・内的な要因により計画はほとんどがベストでない結果に終わる。だからどこまでできればまあ、許せるだろうというのを考えるのは当たり前といえば当たり前だ。
マラソンを走る人は全て世界新記録を狙っているわけじゃない。あるいはそれで完全な健康体になるとかももくろんでいない。今の自分よりこれだけ早くなりたいとかそういった個別の合格ラインを引いてることがほとんどだろう。
言い換えると、これも怠惰だ。自分の都合といったものを考えずにだれからも文句の言われない合格ラインを設定しようとする。
共通することは「突っ込んで考えることを放棄している」という点だ。怠惰と書いたが、何らかの理由で頭が混乱するぐらい疲弊しているからという可能性もある。
考える、それもしっかりとは見えない何かを想像で間を埋めていく。そういったことは大変だ。だからついそういうことを省いてしまう。向上心はもちろん大切なだろう。
だが、それで考えが停止してはいけない。そこを具体的に、突っ込んで考えなければいけない。それを考えない怠惰はやがて癖になる。思考も筋肉のように衰える。
私の経験ではそれは地獄のような無力感に繋がる。そういった思考下では何をやっても不十分な出来と判断してしまう。失敗判定ばかり下してしまう。とても、とても息苦しい。それを覆すには前もって勝利条件、成功判定の条件を決めておくことだと思う。
そして、そういった「最高」とかいう基準をあんまり考えずに押し付けてくる人の言葉を疑うことが大事だと思う。そういった人の考えない言動は、感染すると思う。
最近、本当にこんなことを強く思っている。私もそうなのだろうが、人間は他人に対して割と適当なことをいうものだし。